周囲の様子

太子道の大和側につきあたる付近の建物がない部分は、明治の地図だとびっしりと地図記号が書き込まれているんですが、ほとんどが通常の「田」の地図記号になっています。

「沼田」でもなければ、「草地」や「荒地」でもありません。当然白洲正子さんが歩いたよりだいぶ古い時代なんですけどね?