今日はここまでこじつけた

植槻八幡神社です。

このあたりの植槻という地名は万葉集*1にも登場する古いものです。神社の前身の植槻寺も和銅2年(709年)に藤原不比等*2維摩会を行った記録が残ってる、とても古いものです。お寺自体は遷都以降は衰えたらしく長保5年(1003年)には植槻寺の鐘を薬師寺が引き取った記録があります。そういうわけで今はお寺の代わりに神社だけ残ってます。
まあ由緒ある神社なんですが、奈良ではちょっと古い程度では観光地にはなりません。ちょうどここの北1kmほどのところには薬師寺・その500m北には唐招提寺があるという世界遺産インフレ地帯にあってはこの程度では全く目立ててません。したがって今は地元民以外寄り付かない人影まばらな場所です。
ところでここの神社のお祭り「植槻オンダ」*3はかなり面白いのでお薦めです。翁面をかぶった人が牛(の着ぐるみ)を引いて田植えの所作をするんですが、このときに引かれるちょっとぞんざいな牛、モンティパイソンのバカ馬と同じ脅威のメカニズムで萌えます。せんとくんよりこっちのが絶対かわいいです(写真ありませんごめん)。
ここの地名の読みは今は「うえつき」ですが、応永13年(1406年)の記録に「ウエツケノ宮前」とあります。下記、安政年間の古地図にも「ウエツケスヂ」と書かれてます。

ので、少なくとも過去にはウエツケと読んだようです。MMR的にこじつけると八幡は農耕神だからとか、誉田->オンダ->御田とかいろいろ厨房妄想できて楽しいです。
神社の人にいろいろ聞きたいことがあったんで*4、10分ぐらい境内をうろうろしてたんですが誰も出てきてくれなかったで気の小さい私はそのまま神社を後にします(だめじゃん)。

*1:「我が思ふ 皇子の命は春されぱ 殖槻か上の 遠っ人 松の下道ゆ 登らして 国見あそはし」

*2:ここは八幡宮、つまり誉田別尊(=応神天皇)が主祭神なんですが、末社藤原不比等(とその子たち)が祀られてます。八幡自体は貞観元年(859年)に分霊されたとのことでこれは平安京遷都後なので、本来はどっちかというと藤原氏がメインなのかも。平城京北東端の春日大社とともに南東端のこの地にも藤原氏ゆかりの神社があり、さらに後述の大職冠=鎌足ですし。私は物部派なんでどうでもいいんすけどね。

*3:オンダには「御田」という字をあててる場合もあります。毎年1月7日ですよ。

*4:このあたりは江戸時代は武家屋敷が並んでた場所だし城下は商工業がメインだったはずなのになぜ田植えの神事なのか?氏子は農家が多かったのか?城が出来る前、もしくは城下が荒廃する前からの祭りなのか?翁面などはいつごろ制作されたものなのか?とか